横浜開港資料館 ─アーカイブズを観光拠点に変えた「近代横浜の記憶装置」

※この記事は、機関誌IM2025年11・12月号の再掲記事となります。掲載当時の情報に基づいているため、現在の状況や制度、取り組み内容と一部異なる場合があります。


横浜開港資料館
ハイネ作「ペリー横浜上陸図」。
右側には「玉楠の木」が描かれている
展示室に飾られている19世紀中頃の世界情勢を示す巨大な地球儀。他にも貴重なものが多く展示されている

 みなと横浜には山手、中華街などの歴史的なスポットと現代的で魅力ある観光スポットがあり、2024年度の横浜への観光者数は約1,200万人、前年に比べ約0%増となった。横浜開港資料館は観光エリアの一角に位置し、幕末から昭和初年までの横浜の歴史をさまざまな媒体を工夫し、発信している。

 同館は地下鉄みなとみらい線「日本大通り」駅から横浜大さん橋へ向かう途中の交差点に隣接する「開港広場」にあり、1981年に旧英国領事館の建物から変身した。隣には横浜海岸教会があり、連なる横浜らしい歴史建物に一見してアーカイブズの施設とは感じられない。海側に目をやると、通りに沿う山下公園とホテルなどが立ち並ぶ。この辺りは、かつて外国人居留地だった。

 さらに歴史を辿れば、同館は黒船が来航し、マシュー・ペリー提督が上陸して日米和親条約を締結した場所にあり、中庭の「玉楠の木」は当時の出来事を見ていたことになる。言い換えれば、日本の近代化はここから始まったと言えるだろう。ちなみに筆者の勧める観光コースは、まずはここを起点にして横浜開港後の歴史を知り、中華街から元町商店街を散策、そして山手の西洋館巡りで、横浜の歴史が楽しめそうだ。今回はご多忙の中、神谷大介調査研究員と加藤七海広報担当のお二人に取材をさせて頂いた。

(取材日:2025年8月22日)

広報委員会副委員長
認証アーキビスト
長井 勉ながい つとむ

資料館中庭にある「玉楠の木」は、横浜の歴史の生き証人ともいえる

―まずは開館までの経緯をお願いします。

 ご存じのように、1858年に日米修好通商条約が結ばれた後に1859年7月1日(安政6年6月2日)、横浜が開港しました。横浜開港資料館(以下、「資料館」という)は開港100年を記念して、発刊された『横浜市史』の収集資料を土台に1981年6月2日「横浜開港資料館条例」によって開館しました。開港の歴史を紐解くと、1854年にペリーが当時の横浜村に上陸し、幕府の役人と交渉したこの場所で日米和親条約が結ばれました。後ほどご案内しますが、当館中庭にある「玉楠の木」の前身がペリーに随行していた画家ウィリアム・ハイネの石版画に描き込まれています。この木は日米和親条約締結の地に残るタブノキとして市の史跡に登録されています。つまり開港の歴史と関わりの深い場所に当館が開館し、今年で44年目を迎えました。開館当初は財団法人横浜開港資料普及協会が管理・運営していましたが、1998年に財団法人横浜市ふるさと歴史財団(2011年より公益財団法人)と統合され、2006年度からは同財団が指定管理者として管理・運営にあたっています。


― 資料館は横浜にふさわしい歴史的な建物ですね。その前身は。

 当館は新館と旧館とに分かれています。旧館は1931年に建てられた英国総領事館でした。新館には現在、常設展示室と企画展示室、地下1階には閲覧室があります。また収蔵資料も新館で保管しています。収蔵資料の大部分は横浜市史編さん事業の中で収集した資料です。


―当時、跡地の利用について議論はありましたか。 

 1972年に英国総領事館は閉鎖され、横浜市に払い下げられました。どう活用するかの議論があり、当時の飛鳥田一雄市長は日米和親条約締結の地である同館の場所に、横浜開港を記念するための施設がふさわしいという市民からの手紙を受けて、最終的に開港資料館を設置することを決めました。


ここを資料館にしようというのは素晴らしい発想ですね。それまでは歴史資料はどのように収集・保存されていましたか。

 当館の開設に関して、その前提として横浜市史の編さん事業が大きく関わっています。1954年から横浜開港100周年事業として始まった『横浜市史』編さん事業(第2次)が終了し、刊行を迎えたことです。この過程で収集された歴史資料をどのように保存活用するか問題になりました。実は1920年に市史編纂係を設けて、資料の収集を始めましたが(第1次)、関東大震災で焼失しました。その後、再度収集活動を行い、1931年から1933年にかけて『横浜市史稿』を刊行しました。結果的には、関東大震災以降1981年までに蓄積された資料が開港資料館に引き継がれ、収蔵資料の基盤となりました。


―引き継がれた資料の保存の他に新たな取組みは。

 開館3年ほど前から開港資料館設立研究委員会議が設立の基本的な方向を定めました。それは、江戸時代から大正期までの横浜に関する資料を収集・保存・公開することです。対象地域も横浜に限定せずに海外からも収集することになりました。


―こうした収集活動の結果、現在の貴館の収蔵資料は。

 江戸時代から大正・昭和初期に至る横浜関係資料約27万点です。内訳は横浜市・神奈川県の議事速記録、広報や統計書、各国との外交文書や横浜居留地などの海外資料、横浜市内の旧家の文書、横浜商人関係の文書、横浜や諸外国で発行された新聞・雑誌、写真・絵葉書などの画像資料、個人コレクションなどです。


―市史編さん終了と開館のタイミングがよかった。

 そうですね。市史編さん事業が最終段階を迎えた時期に、英国総領事館として使われていた建物が横浜市に払い下げられましたので。


―その後の市史編さん事業はどうなりましたか。

 第3次の市史編さん事業は1985年から2004年まで行われ、対象は関東大震災以降の資料です。ここで収集された資料は横浜市中央図書館内にある市史資料室で保存・公開されています。この資料室は2025年度中に移転が予定されています。


―開館当時、館の名称やコンセプトについて議論はありましたか。

 将来的にどのように活用するかの議論があり、「横浜開港資料館」の名称についての議論もあったようです。広く市民の皆さんに収集した資料を公開活用していくための施設づくりが課題として議論され、展示・公開するだけではなくて、実際に展示される資料を市民の方々に触って閲覧できることも考えていました。


―閲覧室もあり文書館としての機能もあります。

 閲覧にもこだわった形で施設を運営していく考えから、博物館(ミュージアム)ではなくて資料館(アーカイブズ)という名称にして開館するに至りました。閲覧室は文書館としての機能ですが、とはいえ図書・雑誌なども閲覧室で公開しているので、そういう意味では図書館機能もあります。開設当時は文書館機能(アーカイブ機能)を重視した運営がされましたが、近年では展示業務も充実させています。したがって、博物館、図書館、文書館それぞれの機能を融合し、多くの方々に横浜の歴史の魅力を伝えていくことが開館以来のコンセプトになるかと思います。


―貴館の運営組織は。 

 当館の運営は横浜市から指定管理を受けている公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団です。震災以降の横浜の都市形成に関わる資料も保存・公開している横浜都市発展記念館をはじめ、横浜ユーラシア文化館、横浜市歴史博物館、横浜市三殿台考古館なども同じ財団が指定管理者として運営しています。したがって一体感を生み出すために収蔵品を出展し合うなど連携をしています。当財団の中に新たに文化観光拠点計画推進課を創設し、旧館の改修や収蔵資料のデジタル化にも取り組んでいます。


―来館者の特徴は。

 当館は大さん橋が近くにあり、観光客も来られます。初めての来館者が多いですが、最近はインバウンドの効果で外国人観光客も多くなりました。また、他県から学生が社会科見学で来ることも多いですね。


―年間の来館者は?

 展示会で約40,000名、閲覧室は予約制ですが、約1,000名が来られています。


―閲覧の場合、どのような資料を。

 遠くからの来館者が閲覧しているのは、英国の外交文書が多いようです。英国公文書館で収蔵している外交文書の複製がここにあります。こちらから派遣して現地でマイクロ撮影を行いました。また居留地の経営に関する資料も閲覧が多いです。つまり当館の前身が旧英国総領事館だったこと、またペリーが来訪した地であることなどの理由で海外の外交文書の調査は開館以来かなり力を入れて取り組んできた結果です。


―その他にはどのような資料がありますか。

 横浜市内の旧家に残された江戸時代から明治、大正、昭和期を含めて残された古文書類です。そのような古文書を確認しに来られる方も多いですね。なかでも、軍艦奉行を務めた木村芥舟(1830-1901)は幕末の頃、勝海舟と共に咸臨丸で太平洋を横断した人物です。この木村家の資料を収蔵しています。書簡や掛け軸、また写真アルバムがあり、幕末の文化を知ることができる貴重な資料です。


―展示会についてご紹介ください。

 今年は3回開催します。特別公開として9月13日から12月21日まで「横浜の外国商社と舶来時計」を開催します。「小川雄一コレクション」が当館に寄贈され、舶来の懐中時計163点などを中心に、近代化をめざす明治期の日本に与えた影響を紹介します。もう少し詳しく話しますと、江戸時代から幕末にかけて大きな文化的な変化というのはいくつかありますが、その中に時間の概念の変化というものが非常に大きいです。人々の意識の変化を懐中時計の普及から読み取れる展示です。時計にはメーカーごとにロゴマークが付いていますので、ロゴマークのデザインを見るのも面白いと思います。

特別公開「小川雄一コレクション初公開 横浜の外国商社と舶来時計」の展示会は、2025年12月21日(日)まで行われる
※現在は実施していません

―全体的に施設のスペースに問題はありませんか。

 開館以来、収蔵資料は増加の一途をたどっています。収蔵スペースの確保は近年の重要な課題の一つです。新館の3階に大小の収蔵庫が1室ずつあり、貴重書庫も2室備えています。そこには主に絵画資料や写真アルバム、コレクション類などを収めています。また近隣の施設を借りて、保管スペースを確保しています。


―閲覧室も含めて明るく広いスペースが欲しいですね。

 閲覧室のリニューアルは現実的には難しい状態ですが、他施設の事例を参考にしながら、より良い環境づくりに努めていく必要があるなと感じています。


―寄贈に関する問い合わせも多いですか。

 個人の方から問い合わせが来ますが、その内容によっては担当部門が違う場合もあり、必要に応じて他館の担当者とお互いに情報を共有して判断しています。


―デジタルアーカイブ化の現状について。

 デジタル化の対象は文書だけではなくて、浮世絵、写真、絵葉書、図書・雑誌・地図、絵画類です。その他商品のラベルなどもあります。デジタル化して公開しているのは約1万点です。


―デジタル化に向けて助成金などを利用していますか。

 当館を中心として山下公園、元町中華街などのエリア一帯を文化観光拠点とする「横浜開港資料館における文化観光拠点計画」が2021年に文化庁に認定され、補助金を頂いて収蔵資料のデジタル化を進めました。デジタルアーカイブによって地域の活性化につなげていくという取り組みです。また博物館法が改正され、DX化をいかに進めるかが課題になっていました。コロナ禍で状況も変わり、当館の課題とマッチしてデジタルアーカイブの公開が実現したと言えます。補助金がなくなっても通常の財源の中でいかに継続的に運用していくことができるのか今後の課題になってきます。


―デジタル化の狙いに教育材料への提供が挙げられます。

 重要な柱だと思いますが、まずは当館をこれまでに利用されてきた方々の利便性が向上していくようなところを基盤として、将来的に小・中学校・高校・大学も含めて教育に活用していきたいです。今後一層のPRが必要になっていくと思います。学校見学で来館することが多く、事前学習や振り返りの中で、デジタルアーカイブを活用して歴史の魅力をより深いものにしていただければ良いですね。


―館内でのカルチャー教室は開催されていますか。

 コロナ禍の時には少人数の連続講座を行い、後日オンラインで配信、日頃の研究成果の共有や収蔵資料を紹介しましたが、現在は実施していません。企画展の開催に伴って関連講座を設けることをしています。


―デジタルアーカイブの検索頻度が多いのは何ですか。

 具体的にこれということは言えませんが、やはり写真です。デジタルアーカイブのトップページを開くと、ワンクリックで種別ごとに資料の表示・閲覧が可能です。例えば街歩きしながら、スマートフォンでかつての風景や建物を見られるようになり活用範囲が増えてきました。現在シルクセンターのある山下町1番地には、かつて「英一番館」と呼ばれたイギリス系総合商社ジャーディン・マセソン商会がありました。今と昔の風景を現地で画面越しに見比べるのは面白いですね。デジタル画像だからできることがどんどん広がっていきます。


―所蔵の資料を使って商品開発された企業があると聞きました。

 横浜ベイスターズは当館所蔵の明治期に作成された地図を織り込んだアロハシャツを作り販売しています。また「玉楠の木」というバウムクーヘンを販売しているお菓子屋さんや横浜浮世絵「横浜港崎町楼上之図 岩亀楼繁昌之図」を活用した皿も販売されています。まさに画像データによる商品開発で、地域経済にも活性化の流れを当館から発信しています。また、9月末までですが、みなとみらいにある映画館と連携して、チケットの半券を持参していただければ入館料の優待が受けられます。


― 最後に伺います。貴館を一言で表すと。また今後の貴館の方向性について。

 当館ホームページにも書かれていますが、「近代横浜の記憶装置」ですね。開港以降の横浜の歴史を後世に伝え、新しい歴史像を創造していくということです。繰り返しになりますが、小さな村落だった横浜はペリー来航、日米和親条約・日米修好通商条約を経て開港し、関東大震災、横浜大空襲を乗り越えて現在の国際貿易都市へと変貌を遂げていきました。当館中庭の「玉楠の木」はそういう歴史を見守ってきた象徴的な存在でもあり、旧館・収蔵資料とともに末永く後世に伝えていくことが使命です。

 また、文化庁の補助金によるデジタルアーカイブと展示・閲覧機能を融合させ、どう活用していくのかは今後の課題です。魅力ある館として多くの方々に繰り返しご来館いただけるよう、研鑽を積み重ねていきたいと思います。


―本日はありがとうございました。

今回、取材対応をいただいた神谷大介調査研究員(右)と加藤七海広報担当(左)
インタビューを終えて

 170年以上前のこと、黒船来航を揶揄しての有名な狂歌、「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も寝られず」のように当時の人々をパニックに陥れた。だが横浜の丘には見物人が押し寄せ、茶店を開店した話も伝わる。そしてペリー提督が日米和親条約締結の地として横浜に投錨した理由は、艦隊の圧力を及ぼしやすいからだった。だから数隻の艦船の大砲で海岸全体にわたってけん制することができた※1

 横浜へ上陸した際、近くでそびえ立っていたタブノキは、日本の開国から関東大震災と横浜大空襲を生き延び、樹齢を重ねている。今では、この老木はまさに資料館のシンボルであるだけでなく、横浜史の記念顕彰制度があれば間違いなく受賞の対象になるに違いない。

 インタビューにもあったが、1978年まで4期横浜市長を務めた飛鳥田一雄(1915-1990)は革新系市長として話題が多かったが、みなとみらい計画などの将来像を描き、また横浜にプロ野球の誘致にも熱心だったという。飛鳥田の後押しで旧英国総領事館を横浜開港以来の歴史を語るアーカイブズに変えた。震災などで失った横浜の記録の他、日本の開港と近代化に貢献した横浜の歴史を市民に知らせ、歴史を学ぶ大切さを示す思いがあったのだろう。それだけでなく、単に資料所蔵館ではなかった。それは、資料館条例の第1条(設置)に「開港期を中心とする横浜の歴史に関する資料の収集、保存、調査研究等を行い、その成果を広く公開することにより、市民の横浜の歴史に対する理解を深め、もって市民文化の向上に寄与するため、資料館を横浜市中区に設置する」に表れ、幕末から昭和戦前期の記録を精力的に収集し、横浜市民や歴史研究者にも貴重な資料を提供することになった。

 例えば、筆者自らの体験で申し訳ないが、6年前に日本のラグビー発祥記念碑の建立にあたり、居留地の外国人の話題や英字新聞記事などから事実を探り、英国ラグビー博物館に問い合わせた。その結果、横浜が日本のラグビーの発祥地であるということを認めていただいた。所蔵資料を駆使した成果で、レファレンスへの支援と資料館の存在はありがたかった。余談だが、記念碑の文章にも指導を頂き、改めて感謝を申し上げたい。

 そもそもアーカイブズとは価値ある資料があって成り立ち、専門員による調査・研究が新たな価値を生み出し、展示会によってわかりやすく、一般の方に向けた手法で表現していく施設だと感じている。実際、資料館の場合において専門性の高い歴史情報をサーチする方が多く、レファレンスの充実は欠かせないが、気軽に足を運べる展示会の企画を楽しみにしている人は多い。きっと観光拠点にある「近代横浜の記憶装置」は、訪れる人にも横浜の歴史を「記憶」していくだろう。

 ちなみに他の国際港都市のアーカイブズを調べてみた。神戸市立博物館は考古館と美術館が統合して開館し、ジオラマで神戸の歴史を展示している。長崎歴史文化博物館は県と市が一体となって海外との交流をテーマとしている※2。つまり横浜の様に開港以来の歴史に関する資料を積極的に収集・保存・公開するアーカイブズは他では見られない。横浜市内には横浜市ふるさと歴史財団が運営する横浜市歴史博物館、横浜都市発展記念館、横浜市三殿台考古館、横浜ユーラシア文化館、埋蔵文化財センター、横浜市史資料室、横浜市八聖殿郷土資料館があり、それぞれの持ち味を発揮し、お互いに円滑な連携ができるのも心強い。いずれにしても、横浜開港資料館は横浜を訪れたら必ず立ち寄って欲しいアーカイブズである。

 最後に言いたいことは、政令指定都市のなかで、いまだに横浜は公文書館がない都市である。おそらく制度的に現用文書から非現用文書への点検・選別、そして歴史公文書のデータベース化と整備が遅れているのではないだろうか。これまでの議会でも、公文書管理について、担当局・部長から「問題なくやっている」という答弁を数回聞いたことがあるが、そろそろ公文書管理条例化と併せて取り組まねばならないだろう。「横浜IR誘致」や「いじめ問題」には、検証不能な会議記録の不存在が話題になった。だが、横浜市はその本質にメスを入れることはなく、公文書管理の改革に至らなかったのは残念でたまらない。

(敬称略)

※1 『日本開国史』(吉川弘文館 石井孝)

※2 『47都道府県・博物館百科』(丸善出版 可児光生他)

機関誌IM2025年11・12月号再掲

誌面PDF